阿部和重 オーガニズム

阿部和重「Orga(ni)sm」- 作家の筆力だけで十分じゃないか

  • 2020年4月23日
  • book

ちょっとしたきっかけがあり、阿部和重「Orga(ni)sm(オーガ(ニ)ズム)」を手に取ることになった。阿部和重の作品を読むのは十数年振りだ。

この十数年間、僕の中で阿部和重は過去のものになっていた。

渋谷系に傾倒していた10代に「インディヴィデュアル プロジェクション」を読み、そのポップさと暴力性という10代の僕に取って欲しい要素を持った作品にはまり、「シンセミア」までそれは続いた。

ただシンセミア以降、彼の作品を全く読まなかった訳ではない。

むしろ全てといっていいほど、彼の作品に、少なくとも数ページは目を通した。

そして、あの「シンセミア」という傑作と比較して、いつももういいかなと思ったのが、シンセミア以降の経緯だ。

個人的には鏖(みなごろし)含め、阿部和重のいくつかの作品は絶対的なもので、もうアーティストとしては十分な域に達していて、特段大きな変化がない限りは目を通すことはないと思っていた。

僕にとってアーティストは1作でも自分に影響を与えてくれれば素晴らしく十分な存在で、新しい表現がなくなった時点でもうアーティストではないという判断だ。

阿部和重 オーガニズム

そういった中、この「Orga(ni)sm(オーガ(ニ)ズム)」を手に取った理由は、私の最高傑作である「シンセミア」の舞台である、神町三部作が完結し、完結されるまでに20年を費やす表現であったことが、作家阿部和重のTweetを通して、知ってしまったことがきっかけだった。

一度は敬愛した作家の20年に渡る表現は、見届けるべきではないか。とまあ、割とポジティブな心持ちだったことにある。

そんな経緯をもって、現在生活するバンコクの紀伊國屋に向かい、無事に最後の一冊を新刊20%オフで購入することにめでたく成功した。

そして読み始めてすぐに違和感。違和感の連続で心地悪かった。

そうだ、なぜ僕が阿部和重の小説を読まなくなったのか。その理由を思い出した。

まず阿部和重が小説内で描く、「小説家 阿部和重」の言い回しのへの違和感だった。

なにが狙いなのか、本人としては本気なのか分からないが、とにかく変でユーモアもない。

そして、WEB上のメディア情報やスマホやPCのモデル名などを、とにかく詳細に記す。

この時代に置いて、そんな物はアイコンとして機能しないのに、なぜ記すのか。

「ニッポンアニッポン」を描いた2001年なら分かるが、00年代後半以降もそれをする意味が全く理解できなかった。

理解できないだけならいいが、意味のない情報が無駄に入ってくるので、全く持って読み心地が悪かった。

「Orga(ni)sm(オーガ(ニ)ズム)」でもそれは続く。

う~ん、まったく。。。読み始めてから200ページぐらいはそれが続いた。

正直なところ「シンセミア」を読んで神町や田宮家について知っているので読み進められたが、仮にそれらがなく、図書館で借りた本などであれば早々に本を閉じただろう。

とにかく最初の200ページぐらいは心地悪く、ため息交じりにページを進めて行くことになった。

ただそこからははまって行った。

といっても物語に斬新さや時代性はない。神町の菖蒲家の秘密をFBIが捜査し、小説家阿部和重がそれに巻き込まれるといったもの。時の大統領はオバマである。

プロット自体を過去に考えたのだろうからオバマは良しとして、その他のハードボイルド+小説家阿部和重というところに、特に斬新さはないし、時代性もない。

この小説にあるのは、「シンセミア」同様、阿部和重の筆力だけだ。

そしてそれが面白いので、結局夢中になって読み終えてしまった。

なので特にこの小説について語ることはない。面白い小説だったということだけ。

これだけ描けるなら、時代性を入れたものを読んでみたいけど、しばらくはこういった密度の高いものは書けないだろうから、未読だった「ピストルズ」を読むことにした。

まあこれだけ自分に作品を読ませた稀有な作家の完結作。読んでみても時間の無駄にはならないと思う。