久し振りに知的好奇心を刺激された宇野常寛の「遅いインターネット」。
この本の中で著者が掲げる「遅いインターネット」の意味はさておいて、何はともあれ「いま必要なのは、もっと<遅い>インターネットだ」という帯のキャッチに共感を得てしまう。
もちろんこの遅いということが、情報のスピードとか云々ではなく、これはインターネットに対してのアプローチや捉え方の問題提起であると直感で感じるだろう。
GoogleやSNSでの情報に対して誰しもが違和感を持っているけど、その場から離れること以外に、悪しきインターネット環境から逃れる術があるのか。
多くの人が疑問を持つ現在のインターネットの状況に対して、遅いという抽象的な暗喩がどういうものなのか見ていきたい。
インターネットが置かれた状況
この本の主題はもちろん「遅いインターネット」なのだが、本題に直接的に触れている部分は少ない。
広い意味で昨今のインターネットの使われ方や、それがもたらした結果。また問題点について言及し、「遅いインターネット」の必要性について書かれている本だ。
本題に至るまでに、前置きとしても解釈しずらい内容が続くのですが(でも面白い)、そこら辺も踏まえて意見していきたいと思います。
序章は「オリンピック破壊計画」という刺激的なタイトルで始まり、2020年にオリンピックが行われる意義について、1964年に開催された東京オリンピックの状況などを交え解説されている。
民主主義を半分諦めることで、守る
第1章「民主主義を半分諦めることで、守る」では、ドナルド・トランプが勝利したアメリカ大統領選挙を例に取り、グローバルな資本主義が政治より優位に立つ現在で、なぜトランプが支持されたかを説明している。
一見これはトランプが支持された=民主主義で、なぜこれが民主主義を半分諦めるということになるのか錯綜しそうだが、実際に民主主義の多数決は、その意思に沿った結果をもたらさないし、多数決は信憑性にも欠ける。またグローバルな資本主義が政治を飲み込んでいる現在において、民主主義という政治的な判断の意味の是非を問うものでもあるだろう。
また一般的な民衆は、世界に素手で触れているという実感を求め、自分たちの境界を守る直接的な意見に賛同する。それがトランプ大統領を誕生させた。
但しそれは熟議された意見の元に生まれた民主主義の結果ではなく、もっと感情的で精神的で、不安から発生した脆弱なシステムのようだ。
宇野氏は、そこに情報技術を用いて新しい政治参加の方法を取り戻すことを考え、この熟議という民衆の成熟を、「遅いインターネット」によって成立させようと提案しているのだと思う。
拡張現実の時代
この章では「モノ」から「コト」へ価値が転換した時代、つまり他人の物語(作品)を享受する時代から、自分の物語を創造する時代を、SNS上で投稿されるリア充を演出する振る舞いや、ランニングやヨガなど自分を高めることへの行動を例に取り解説する。
またディズニーなどの資本主義に対抗して、情報技術を用いてエンターテイメントを提供する存在として、拡張現実を使用したポケモンGOを例にあげる。
ポケモンGOの本来の目的はモンスターをゲットすることではなく、情報技術を使用して街を歩くことで、自分の物語を創造することだという。ポケモンGOというゲームはひとつの行動のフックであり、ポケモンGOが流行った理由は、現実世界での体験から自分の物語が作られたと考えると、確かにそうなのかもしれない。
21世紀の共同幻想論
吉本隆明の共同幻想(人類が社会機能させられるのは、国や神などの虚構を用いることができるから)を用い、SNS社会を分析する。
自己幻想をFacebookのリア充、対幻想をLINEでのコミュ、共同幻想をTwitterに見立て、それぞれの依存を示している。
そしてこの情報社会を受け入れつつ、今日の速いインターネットが生み出す、ボトムアップ(マスメディアの享受ではない)の共同幻想からの自立が必要だと提起する。
民主主義が(より一層)正しい民主主義に成りえない現在、政治と国民との接続する回路の多元化や、自己幻想のマネジメントを提案し、それを支えるのが遅いインターネットだと考える。
遅いインターネット
上述されたような(主観で部分的に記載)インターネットが現在に与えている影響やその在り方説明した上で、現在の問題点と「遅いインターネット」で目指す当面の方向性を下記のように記している。
そして「遅いインターネット」というサイトを立ち上げ、「考える」場として様々なコンテンツをアップしている。
これだけ見ると正直拍子抜けするだろうが、これはあくまで活動としての「遅いインターネット」としての序章だと思う。
この「遅いインターネット」をきっかけとして、「考える」ことを取り戻すこと。また若い世代が「考える」「読むこと」への価値を見出すこと。そのための土台作りとして、このサイトは存在していると思う。
焦ってはいけない。この取り組みの結果は、今まででいうところのいち専門誌として機能するのではなく、この速く、拡張性を持った現在において、考える場を持っているだけだ。それにより、その世界に我々が希望を生み出していこうということだと思う。
遅いインターネットの是非
ここまで読んでくれた方はお分かりの通り、この本には結果につながる新しいアイデアはない。
資本主義やグローバル社会が国家を飲み込み、人々の生活の一部となってしまったインターネットの問題を、いくつかのロジックを用いて解説し、その打開策の取り組みを想起したものだ。
新しいアイデアはないが、これだけ分かり易く、知的好奇心とともに現状を解説してくれているだけで、個人的には新しいできゴトで、なんとなく感じていた閉塞感を明確にしてくれた。そしてもちろん考えさせてくれた。
ただ宇野常寛を持ってしてもこの結果という点では、この本に満足していない。
「遅いインターネット」の当面の取り組みを考えると、過去への帰還だと思う。もちろん過去と今では状況が違うので、同じことをしても同じ効果になることはないと思うが、想像できる結果があまりに遠い。
貧困状態で小さな子供を抱えているような気分だ。
本を読んでいる最中の愉しさが過ぎれば、正直、これしかないのか。というのが、本当のところだ。
だた宇野さんの活動は支持している。
異論
モノからコトへ、他人の物語の享受から自分の物語へ人の関心がシフトし、それに対してSNSの影響を謳っているが、SNS以前に世の中は既に変わっていたように思う。
そもそもでいうと、モノへの依存は日本が豊かになってから下り坂のはずだ。
一例としてCDが売れないけど、フェスや握手会への参加数は増えているとあるが、これはCDという音楽データが無料で手に入れられるため売れていないだけで、モノの衰退と情報化によって、フェスや握手会への参加ユーザーが拡大していったというだけのことだと思う。そしてCDをモノとして捉えているが、CD(音楽)はモノとコト双方合わせ持ったものだ。
モノの衰退とは、例えばファッションは情報化によってモノの個性が失われ、グローバリズムによって程よいモノの価格が下がり、モノの価値に依存することがコスパ的に馬鹿らしくなったことが要因としては大きいのではないだろうか。
新聞をネット上で有料化しても、読者が付かないのと同じことだと思う。
ユニクロが一般化され始めた2000年当たり、周囲にいた多くのファッション支持者が、「この価格で、こんなもの出されたら、まともな服を買うのがアホらしい」と口にしていた。
そして、お金を使うのは自分がこだわりのあるごく一部へとシフトしていったと思う。
この本の中でほぼ日のモノにコトの付加価値(生産者や製造工程が見える)を付けたタオルに対しての、一般層の反感に言及しているが、自分がこだわりのあるごく一部のものにタオルが含まれていない。ということだとも思う。
どうも宇野さんは、一般層の購買や行動に対しての、ベースとなる経験が希薄なのではないかと思ってしまう。
西野さんの活動に対して
宇野さんは西野さんと面識があり、サイト内にも西野さんとの対談が掲載されているので、西野さんの活動をどう捉えているのだろうか。これは本誌とはまったく関係ない、個人的な疑問です。
西野さんの活動は面白みはあるのですが、どうにも腑に落ちない部分がある。
活動していることがシンプルに善いことなのだ。シンプルすぎて大学生みたいで、あくまでこれは「タレント西野亮廣」がやるから成り立っているんだろうし、やっていることの過程に面白みがないので、なんでこれに多くの人が賛同しているのか理解できないのだ。(お金を出すとか、1日参加するとかなら理解できる)
またそこに集まる人達も、オンラインサロン内の支え意識が強く、西野亮廣の名前を使えばクラウドファンディングの資金集めも容易になる。
それで成り立っているんでいいなじゃないか、と言われればそれまでなのですが、西野さん、他メンバーも含め、ポジティブな側面しか見せず、メンタル的な躁部分とお金を出しやすくするロジックだけを実行しているようで、宗教的に感じる。
で、ここに居る人達が何を成し遂げるかというと、身内が食べて行けられるという実質的な共同体を作ることになるのではないだろうか。
そこにはビジネスとして、社会的にポジティブな要素を感じることがない。
ボランティアでやっていることを、優秀な広報としてスモールビジネスに昇華しているからつまらないのだろうか。