ちょっとネタ的ではありますが、「コロナウイルス」の渦中で思い出したのは映画「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」。青山真治監督2006年の作品です。
時は2015年。感染すると自殺してしたくなる経路不明の「レミング病」が流行。
その病気と感染対策となったのが音楽。しかも「ノイズ」だった。
その病気と感染対策となったのが音楽。しかも「ノイズ」だった。
※レミングとはタビネズミのことで、タビネズミが入水して集団自殺するという、デマをネタにしたものだと思います。
「音。それは未来への希望だ」
タイトルの「Eli, Eli, Lema Sabachthani?」とは、ヘブライ語で「神よ、何ゆえに我を見捨てたもうや」という意味で、イエス・キリストが処刑される際に言った言葉である。森敦の短編集『意味の変容』の一編から着想を得ている。主な撮影は北海道で行われた
クラスター感染源としてライブハウスがやり玉に上げられたことなど、どうにもこのコロナ禍の状況と映画がリンクしてしまう。
どちらかというと、コロナウイルスの影響としての自殺者増加がまさに「レビンス病」のように感じられる。
そして我々は今、自らの手で、この感染対策である音楽を遠のけてしまっている。
ノイズへの愛なのか、失われる感じ取る力への警鐘なのか
この映画の中で鳴らされている音は「ノイズ」だ。自殺の感染症対策として、なぜノイズが選ばれたのか。
雑音(ノイズ)を音楽として受け取れる感性が重要で、体よく整えられたものだけが受け入れられる社会に、警鐘を鳴らしていたのではないだろうか。
そして不明確で、理解できないものの価値を訴えたかったのではないだろうか。
mixiに残された当時の感想
2006年2月13日。mixiの日記にはこう書き記している。
僕の結論としては「ノイズ」とか「音楽」は、なんかすげーだろって言いたかったのかな?と。ただこの意味のなさや捉え難さが現在で、とにかく「生きろ」と言いたかったのだろうか。
90年代を生きた人にとって、00年代はカルチャーの閉塞感を感じた時だと思う。
9.11やグローバル化する資本主義社会という未来の見えない社会。メタ情報至上で、ポルノ化していくカルチャーの中で、自分が信じるものの行方を捜し、それが見えなかった時でもある。
視界を閉ざして聴こえてくるノイズは、雑音ではなく、人のパッションを含んだ生きる糧だった。
青山真治は捉えにくいノイズをひとつの象徴として、「生きろ」と言いたかったのではないだろうか。
ー「音。それは未来への希望だ」
ー「神よ、何ゆえに我を見捨てたもうや」
そんなことはない。我々には、音楽がある。