プラプダーユン 新しい目の旅立ち

プラープダー・ユン「新しい目の旅立ち」への違和感

これまでタイ文学を読んだことはなかったのですが、バンコク在住ということで少しはタイの文芸に興味を持ってみようと思った。

そう思っている際にちょうどタイ文学界、しかもサブカルチャーを経由したとっつき易い作家の作品が日本語訳されて発売された。

しかも東浩紀が主宰する「ゲンロン」からの発売で、装丁も美しく、これは買わねばとなっとなった訳だ。

プラープダー・ユン「新しい目の旅立ち」

作家はプラープダー・ユン。タイの村上春樹と称され、00年代前半にタイのポップカルチャーのアイコンとして登場した作家だ。

1973年8月2日 バンコクでネーション・マルチメディア・グループの経営者、編集者でもあるスッティチャイ・ユンと、雑誌『ララナー』(ลลนา)の編集長をしていたナンタワン・ユン(นันทวัน หยุ่น) の息子として生まれる1997年にニューヨークのクーパー・ユニオン芸術学部を卒業。1998年タイ王国軍の兵役に就くためにタイに戻るまで、ニューヨークでグラフィックデザイナーとして仕事をしていた。
Wikiにある通り、プラープダーはタイでも上位の富裕層出身で、ニューヨークへの留学経験もあるインテリ。アメリカ滞在時に90年代のオルタナティブなカルチャーに影響を受けている。
そのため日本でいうところの90年代のサブカル世代とよく似た感覚を持っている。
そう聞いてしまうと、同じ90年代のサブカル世代の僕には、今更必要がない本だと思ってしまう。ただ「新しい目の旅立ち」は小説ではなく、旅行記と哲学書を混ぜ合わせたようなものだった。
元旅人でサブカルにハマったことがあるタイ在住者。かつゲンロンを不定期ながら購読している身としては、避けて通れないように感じた。

哲学的な思考を巡らせる旅

この作品は旅の紀行文であり、プラープダーが造詣の深い哲学的な思考を巡らせる旅の本でもあります。

作家になり8年。引き出しの中にある知識を使うことに飽きてしまった。

2007年プラプダーが33~34歳の時、本を書き始めるまでの20数年の知識や物事の捉え方(哲学)を使ったロジックで、小説を書くことが嫌になってしまった。

そして新たな引き出し、もしくは別の棚という哲学を求めて、フィリピンにある黒魔術で有名な「シキホール島」を目指すことになります。

ちなみにこの旅自体は日本財団フェローシップの奨学金を使って行われ、2015年に「ตื่นบนเตียงอื่น(違うベッドで目覚める)」というタイトルでタイで発売されている。

この本の主なテーマはプラープダーが「汎神論」を肯定的に理解することで、新しい目を持つことや、違うベッドで目覚めるという、新たな自分を手に入れるための旅だ。

つまりテーマは新しいものではない。この手の悩みは、表現をしている人には必ず訪れるものであり、新しい価値観を原始の文化に求めるという点は、自分探しのバックパッカーに近いものがある。

ここまで概要を説明していくと、やはり読む必要があるのだろうかと疑問に感じてしまうが、この本の肝は哲学である。

プラープダーの興味は、神や人、自然の存在に隔たりはなく、全ては精霊が宿ったもの(神)という汎神論の哲学者であるスピノザ、人間以外の存在に魂や霊の存在を認めるアニミズム(精霊信仰)や神道にあります。

つまり現代社会で失った思考を、黒魔術が残るような古代的(非文明的)な島を通して新たな目を発見しようと期待した旅であると思う。それはもちろん行動としての旅ではなく、彼が新しい目という哲学や見識を発見するための思考を巡る旅というのが、本書の主たる内容です。

そして日本人読者としての見所は、タイ人でありサブカルチャーを経由した作家が、哲学的な要素を使って描く思考や文章にあると思います。

また黒魔術の島「シキホール」という、旅行記として魅力的な響きと、その真相を知れるところだと思います。

違うベッドで目覚められたのか

断片的な才能で本当に若くしてデビューした10代の作家やバンドならまだしも、27歳で小説デビューした作家に本当に新しい目が生まれたのだろうか。

あのときの旅は成功だったと、確信をもっていうことができる。研究という面では失敗だったとしても、ぼくの思考には、八年前とは完全に違うものが生まれていた。

本人はこう書き記しているが、疑問として、この旅を終えてそれを文章にするまでに8年の歳月が流れている。

それはつまり、この旅で新しい目を手に入れることができなかったのではないかということだ。

僕がそう思った理由として、この作品は翻訳されたとはいえ、彼が書く文章は彼の年齢や世代感や感性に満ちている。ひとつでも新しい発見があればと思ったが、肝心の結論は新しいものではない。

もちろんこれは当人の問題で、周囲がその是非を問えるべきものではない。プラープダーは哲学者でもなければ、本書で何かに言及している訳ではなく、個人的な話をしているだけだ。

ただ「ゲンロン」から出版されていることを考えると、もう少し知的好奇心が満たされるべきではないかと思う。

本書を読むことによって逆説的に、基本的な思考論理ができた後に、それが変わるということはありえないのではないだろうか。僕はそう感じてしまった。

シキホール島は彼が想像するようなものではなく(そもそもそれは容易に想像できたような気もするが)、彼は島の自然やシンプルな生活の素晴らしさを感じ、人と自然という対立なく、ありまのままの自然を受け入れるようになる。

それは新しい目というより、既に彼が持っていた引き出しを開閉して、曖昧な記憶や感性を個人的に明確にしたに過ぎないように感じる。結局は彼が否定がちに述べていた、中産階級という余裕がある人の贅沢として、島の生活を楽しで小さな個人的な発見をしたということに過ぎないのではないか。

それぐらいのことは、異文化を旅をすればよくあることのように思う。

哲学的な要素とサブカルチャーを経由したタイ人作家という、メタ要素の斬新さでゲンロンは出版したように思えて仕方がない。

もしくは東浩紀という人は、旅や海外という共通感覚を持たない要素の感覚に疎い人ではないか。氏の著作「弱いつながり」を読んでいてそう感じた。

プラープダーの立ち位置

もうひとつ疑問に感じたのが、「哲学的な要素とサブカルチャーを経由したタイ人作家」という、メタ要素の面白さを考えた時に、メタ要素を見誤ってしまったのではないかということだ。

シキホール島への旅は、旅という未知性においてあまりに一般的(容易)で、いち旅人が簡単に新しいものを見つけられるほど、分かり易く原始的な文化が残っていないことは、予め分かっていたことだ。

そしてプラープダーはあまりにも西欧化されているアジア人であり、日本のカルチャーを多分に吸収して育ってきている。結果、日本人がこの本を書いたといっても差し支えのない内容になってしまっている。

ひとつ断っておくと、タイには独自のサブカルチャーというものはなく、海外のマス以外のカルチャー自体がサブカルチャー的なポジションを担っている。基本的には輸入ものという位置付けだ。

そしてそういった輸入もののマス以外のカルチャーを好むのは、プラープダーたちのような富裕層だ。

タイの貧富の差は世界一ともいわれていて、外階級ごとに行く場所も大体決まっているし、友人関係なども基本的にはその階級内で出来上がっている。

その点でそもそもプラープダーに、タイ独自の文化的視線を望むこと自体が無理なことだと思う。外国人にとってのタイのサブカルチャーは、田舎で好まれているような貧しい人達の文化なのだ。

この本の着地点

あれこれ書いてはきたが、「タイ人」というメタ情報への過度な期待や結論には満足いくものではなかったが、読んでいて十分に楽しめるものだった。

こういった哲学と旅を併せ持った本は少ないだろう。「タイ人」という日本人があまり知らない人が、旅をして思考しているという点への好奇心と、一風変わった旅行記として読むとより楽しめるように思えた。

あと訳者の福冨渉(ふくとみしょう)さんの人柄が魅力的だったので、「好き勝手言ってすいません」とだけ付け加えさせてもらいます。